内田樹先生による「死」について

いつも読んでいる内田樹先生のブログから、引用。

2010.04.06
死ぬ言葉

……
朝起きるたびにカウントダウンの針が進んでゆく。
今年経験することはすべて「大学最後の経験」である。
そうやって見まわすと、目に映るすべてのものが儚く、移ろいやすく、いとおしいものに思えてくる。
本邦の古人はこの感懐を好んだようである。
「美的生活」というのは別に書画骨董を愛玩したり、歌仙を巻いたり、文人墨客と賺した話をすることではない。
そうではなくて、「目の前にあるこれは、いずれ消え去って、あとをとどめない」という人事万象の「無常」を、その「先取された死」を「込み」で、ご飯を食べたり、働いたり、遊んだり、つくったり、こわしたり、愛したり、憎んだり、欲望したり、諦めたりすることではないかと私は思う。
なぜ、「生け花」と「プラスチックの造花」のあいだに美的価値の違いがあるかということを前に論じたことがある。
もしも、造型的にも、香りも、触感も、まったく同じであったとしたら、「生きた花」と「死んだ花」の本質的な差はどこにあるか。
差は一つしかない。
「生きている花」はこれから死ぬことができるが、「死んだ花」はもう死ぬことができないということだけである。
美的価値とは、畢竟するところ、「死ぬことができる」「滅びることができる」という可能態のうちに棲まっている。
私たちが死ぬのを嫌がるのは、生きることが楽しいからではない。
一度死ぬと、もう死ねないからである。
すべての人間的価値を本質的なところで構成するのは「死」である。
「仮死性」というものがあらゆる人間的価値の中心にある。
昨日書いたように、私たちが定型的なことばを嫌うのは、それが「生きていない」からではない。
それが「死なない」からである。
個人の身体が担保したものだけが「死ぬ」ことができる。
「世論」は死なない。
個人としての誰が死んでも、「世論」は死なない。
それは「プラスチックの造花」と本質的には変わらない。
だから、世論は私たちに深く、響くようには届かない。
深く、骨の中にまで沁み込むように残るのは「死ぬ言葉」だけである。
……
その人ではない人間が「同じ言明」を語っても真としては通用しないような言葉は、その人ともに「死ぬ」。
「自分がその言葉を発しなければ、他に言ってくれる人がいない言葉」だけが真に発信するに値する言葉であるということを昨日ここに書いた。
それは言い換えれば、「ひととともに生き死にする言葉」だけが語るに値し、聴くに値する言葉だということである。

……

深いっ。