3月15日読了

★★★★4

引用
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内容紹介
科学のフロンティアである「意識」。そこでは、いかなる議論がなされているのか。本書は、意識の問題に取り組む研究者による最前線からのレポートだ。豊富な実験成果などを通して、人間の意識のかたちが見えてくるはずだ。

内容(「BOOK」データベースより)
物質と電気的・化学的反応の集合体にすぎない脳から、なぜ意識は生まれるのか―。多くの哲学者や科学者を悩ませた「意識」という謎。本書は、この不可思議な領域へ、クオリアニューロンなどの知見を手がかりに迫る。さらには実験成果などを踏まえ、人工意識の可能性に切り込む。現代科学のホットトピックであり続ける意識研究の最前線から、気鋭の脳神経科学者が、人間と機械の関係が変わる未来を描きだす。

著者について
1970年千葉県生まれ。1993年東京大学工学部卒業、98年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。98年から2000年にかけて東京大学大学院工学系研究科部助手、2000年から同助教授、カリフォルニア工科大学留学などを経て、現在は、東京大学大学院工学系研究科准教授および独国マックスプランク研究所客員研究員。専門は脳科学。共著に『理工学系からの脳科学入門』(東京大学出版会、2008年)、『イラストレクチャー認知神経科学』(オーム社、2010年)など。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
渡辺/正峰
1970年千葉県生まれ。1993年東京大学工学部卒業、98年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。98年から2000年にかけて東京大学大学院工学系研究科助手、2000年から同助教授。カリフォルニア工科大学留学などを経て、東京大学大学院工学系研究科准教授およびドイツのマックス・プランク研究所客員研究員。専門は脳科学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


HONZから

物質と電気的・化学的反応の集合体にすぎない脳から、なぜ意識は生まれるのか。本書は、この謎に気鋭の脳神経科学者が迫った一冊だ。現代科学の最前線の知見を手がかりに、「人工知能」ならぬ「人工意識」の可能性に切り込む。「幼少期が終わり、大きな転換点を迎えている」この分野の現状をまとめ、これからを見通した非常にエキサイティングな本だ。

私は近ごろ、女性を見て、オンナを意識することが少なくなった。妻への愛が深いからなのか、歳をとったからなのか、はたまた悪い病気でも潜んでいるのだろうか。でも本書を読んで、「女性を見る」ことができるだけでも、スゴイことなんじゃないかと思うようになった。この本の「意識」とは、物質にすぎない脳が「何かを見る」という感覚意識体験のことである。

「見える」「聴こえる」などの感覚意識体験、いわゆる「クオリア」。我々一般人には当たり前過ぎて、それが「意識」だという認識すらないかもしれない。しかし、その謎を解明することこそ、より複雑な意識を含めた意識全般の解決への糸口である、と著者はいう。そこに「意識の難しさの本質をすべて内包している」と著者は書く。本書では、前半でこれまでの研究過程をたどり、後半でこれからを展望する。そして、驚愕の終章では──。


機械が十分に深化し、ブレイン・マシン・インターフェースが熟成したところで、ぜひ、自らの脳をもって、機械の意識を試してみたい。機械に意識が宿ったかを最終的に判断できるのはヒトだけだ。 〜本書終章より


つまり、著者自身の頭で試してみたい、と宣言しているのだ。これは本物だ。狂気だ!などと、私の興奮が頂点に達したその時、私は周囲からの呼びかけを無視していたことを知った。誓っていうが、周囲の声は本当に「聴こえて」いなかった。本の面白さに集中するあまり、脳が「聴こえる」というクオリアが生まれていなかったということなのか。本書は「見える」に関する研究がメインのため、そのことは、ぜひ別の本で調べてみたい。

先ほど述べたように、本書の前半は「意識の科学」の歴史をたどっている。私は、科学の歩みはここまで遅々としたものなのか、とあらためて感じいった。これでは、お金も手間もかかるだろう。その蓄積のもと、予定調和ではない「良い実験」を行ったとき、まれに幸運(発見)が訪れるということのようだ。その歯がゆさやブレイクスルーなどを感じながら、私は興味津々で読み進めた。

もちろん、そこには文系の私が知らない言葉がたくさん出てきた。だが、途中で投げ出すことなく読むことができたのは、イラストのわかりやすさもさることながら、著者の情熱が筆にのっていることが大きかった。そして個人的には、「意識」というテーマそのものが、主観と客観の狭間にあるということも関係していると思った。

意識は主観的なものであり、科学とは客観的な事象を扱うものだ。意識を科学することは、その二つをつなぎ「意識の自然則」を見つけるという、じつに野心的な試みである。そのためいまだに、「意識ほど手つかずで、深遠な問題は科学全般を見渡しても類を見ない」という状況にあるそうなのだ。

一般に科学の本は客観の世界に遊ぶものだが、この本は主観と客観をつなごうとする。だから、私のような文系の、例えば「哲学が好きな人」をも興奮させる力をもっているのではないだろうか。この問題には、哲学からのアプローチも必要なのかもしれない、という思いすら抱かせた。

ちなみに、前半部分で私が一番面白いと感じたのは、「両眼視野競争」のところだ。例えば、右眼で縦縞、左眼で横縞という異なる図形を見ると、交互に縦縞と横縞が見える現象が起きるという。その時、何が起きているか。縦縞が見えているときには横縞のクオリアは生まれていないのだ。つまり、眼に映ったものが「見える」のは、当たり前のことではないのである。

第4章以降の後半部分は、これからの展望がまとめられている。機械に意識を持たせることができるのか、それをどうやって検出(証明)させることができるのか。著者が計画している実験についても、具体的に書かれている。これから始まる研究の前提は、こうだ。


最大の問題は、我々が、客観と主観を結びつける科学的原理を一切もたないことだ。  〜本書第4章より



みな、部屋の片隅に居座る「座敷わらし(意識のハード・プロブレム)」に気づいていながら、見て見ぬふりをしている。(中略)ただし、このような悪しき風潮は次に導入する「意識の自然則」によって確実に変わりつつある。ようやく意識の本丸へと攻め込むときがきた。  〜本書第4章より


著者は、意識の科学を、あらゆる科学の土台に位置する「自然則」にのせようとする。自然側は提案されただけでは意味がなく、検証されなければならない。そして、検証をする方法とは実験なのである。その実験方法として、人工ニューロンを一つずつ生体脳に埋め込んでいく方法があげられている。そこから、「哲学ゾンビ」の話やレプリカントの話、映画『ブレードランナー』の話がでてきたりもする。こんな指摘もあった。


デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、本来「我」にしか適用されない。いわんや機械をや、である。  〜本書第4章より


ここで私は、しばらく目を閉じて、この言葉の余韻に浸った。そして目を開けると本書の記述は、一気に「人工意識の機械・脳半球接続テスト」の話になった。それは文字通り、脳半球に人工脳を移植し、残りの半分の生体脳とつなげる実験である。あまりにスリリングで、ドキドキがとまらなかった。そこから、終章までは一気読みである。

本書で最も私の心を動かしたのは、著者が「機械も意識を持ちうる」と確信している点である。あぁ、SFが現実になってゆく。私が発案し、現在八重洲ブックセンター本店5Fで勤務中のAI書店員ミームさん(人工知能が本をオススメするシステム)にも意識が搭載されたなら、もっと面白くなるだろう。なんて、思わず考えてしまった。

いずれにしても、機械への意識の搭載は仮説の段階。実現はまだ先である。この研究の成果がどうなるか、何年か後を楽しみにして待ちたいと思う。大昔から不老不死を求める人は多い。しかし、「機械のなかに自分の意識を移植して、第2の人生をおくれる」という選択肢が生まれたら、人はそれを選ぶのだろうか。そんな夢想も楽しい、文系もハマる脳科学本だ。