私が死んだらTwitterはどうなるの?

定番になってしまったような「私が死んだら…」シリーズ。
今回はTwitterの場合。少し軽め。

http://www.gizmodo.jp/2010/03/twitter_will.html

そーか、書き込みが途絶えると自動的に消えてしまうのか。
なるほど、なるほど。


先日、母親の(100年はたつだろう先祖代々の)土地と家屋を処分する手続きが終了した。
私のすべきことは、来年にしなければならない税金の納付と、いまだ何も手をつけていない相続手続き。

結局、家にのこった家財道具その他もろもろは、ほとんどそのまま解体作業と同時に廃棄となってしまう。
季節の挨拶のはがきをはじめとして、家計簿、ノート類、個人情報満載の書類が山のようにあったが、処分しきれなかった。紙をシュレッダーにかけることすら、否、一箇所にまとめることさえできなかった。時間的に…、労力的に…。(ほこりと寒さと心にかかる重圧に耐えられなかった)
私信だけはできる限り回収した。それが精一杯だった.

私にはこれらの書類を保管しておける場所はない。また、それらをデジタルデータにして残すための、その作業時間もない。(たとえデータ化出来たとして、一体そのデジタルデータを誰が見るのだろう?私以外、誰が見たいだろう。)

そのままにした書類には、見られて一時恥ずかしいおもいをするものはある。しかし、悪用できる情報はないだろう(たぶん)。人の噂もXX日だ、という理由でそのままにしてしまった。

ここしばらくは、家のあった場所を訪れることもないだろう。
駐車スペースに困っている新しい地主は、早々に駐車場にするらしい。
今度行く時には、「ここには昔何があったんだろう」という景色になっているはずだ。

おしゃれが好きだった母親の大量の衣類、和服。書庫から運んでも運んでもなくならない蔵書。自分も使った様々な楽器類。まだまだ使える家電、家具調度類。食器。ペルシャカーペット。家族が描いた油絵。賞をとった水彩画。パネルにした写真。すべてに多くの憶出がある。

どこかで整理の区切りをつけなければならない…ということはよくわかっているつもりだった。
しかし、手をつければつけるほど終わりが見えなくなってしまった。
時間がない、やり続ける力がない。
白い紙が黒い泥と冷水にまみれて、鉄でできたショベルで、重機のうなりとともに処分されていくのだ。
できる事なら、いつまでも残しておきたい。せめて目は通しておきたかった。
残念だがその場所も時間もなかった。そのストレスのためなのだろう、体調が悪い。

昨日は、桜も咲き始めた春なのに、寒く、一日中、雨は涙のように強く降っていた。
ちいさいころ、母親と傘をさしながら手をつないで歩いた道だった。
傘を持つ手も冷えた。靴のなかも濡れ、スラックスの裾も重くなった。
駐車場に停めていた車のヒーターを強くしても、いっこうに暖まった気がしなかった。

私が死んだら、この思いも当然の如く、消えるのだ。